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もう限界

もう限界だ。
もういやだ。

この頃、つくづくそう思う。

何の限界かって?

それはね・・・・・・夫のニホンゴ。

夫の日本語を聞き続けることに対し、
私にはもう限界が訪れつつあるんじゃないかっていう気がする。

もともと私は、日本語を学ぶ外国人と話す機会があると、
かなりの忍耐をもって話相手になってあげられる。

(ところで、夫はもう、日本語を学ぶことをやめて15年近くになる。)

外国人が日本語を学び話す時に、どうしてもしてしまう文法上の間違いのパターンを、
私はよく知っているし、だから相手の言いたい思いを汲んであげるのも上手い、
と自分では思っている。

言いたいことをどう表現すればいいのか、ということを、
やさしい言葉を使って、なおかつ、相手の気持ちを傷つけずに説明することが、
結構上手い方じゃないかと、私は自分で思っている。

外国語を話そうと頑張るその姿を、スゴイ!エライ!と思うからこそ、
日本語を学ぶ外国人をいつだって私は好ましく思う。

しかーし!

出会って18年もたち、
ところどころに全く上達の無い夫のニホンゴ文法に、
私は心底疲れて倒れそう。

ああ。

彼のニホンゴが楽しくておかしくて嬉しかった時期など、
多分最初の2年だけだった。
それを過ぎて、私は次第にくたびれていった気がする。
でもそれを、認めずに来た気がする。

彼は、私がいつも彼に日本語で話すのを望んできたから、
私は、彼の望み通りにいつも日本語で話してきた。

私にとって、こんな楽ちんなやり方はなかった。
自分の言葉で話せばいいのだ、こんな安易な道が他にあろうか。

私の日本語は、しかしいつしか彼向けの日本語に変わって行った。
熟語などをなるべく使わないように心がけてきたし、
難しげな表現など使わずにやさしい言葉で話すように心がけた。

そしていつしか私には、
「易しい言葉だけで話す日本語」みたいなのが身についてしまった。

全ては、彼のためだったじゃないか。

私は彼が、日本語のどんな言い回しを知っていて、
どんな言い回しを知らないか、かなりわかっているつもり。
だから、彼の理解の及ぶであろう日本語で話してきた。

彼が私に、日本語を話すことを望むならば、
私は彼に、よくわかってもらえるよう丁寧に話し、
100%理解し合いたかった。

ああ、何年にも渡る日常のそんな私の努力など、
自分本位のドイツ人にわかるわけもない。

最近私は、急いでいる時とか感情的になっている時などに、
日本語の中にドイツ語の単語や言い回しをまじえて喋ることが多くなった。

そんな風にごっちゃにして喋るのは、良くないとは思うけれど、
日本語で易しく説明するのも、いまや億劫になってしまった。

そんなわけで今日も、
日本語の中にドイツ語の言い回しをまじえて話したら、
初歩的なドイツ語ミスをしてしまい(ああ私もうっかりした)、
そしたら彼がそれを指摘し、怒るではないか!

指摘するだけならありがたい。
しかし、彼は言った。
もう聞いていられない!

は?

あなたね、それはね、こっちのセリフなんですけども。

18年間、私があなたのニホンゴに耐えてきたことを、
あなたはわかっているんだろうか。

腹が立って、もう文字通り、言葉を失う・・・。(って、ちょっと大げさか。)
でも、もうね、つくづく、やんなったぁーと叫びたい。

自分のニホンゴは凄く上手いと勘違いしている彼のニホンゴ。
発音は絶対上手くならない彼のニホンゴ。
が・の・に・を をいまだに習得できてない彼のニホンゴ。
いや、「が」と「の」はまだいい。
なってないのは「に」と「を」。
これが私をイライラさせるのだ。

私がドイツ語の一格と三格を間違えたくらいで、そんな怒るものかなぁ。
ああ、私は、ほんと突っ伏してしまいそうになる。

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どこに住んでも

もう何日も何日もブログをお休みした気がする。

考え事というのか悩みというのか、
自分のそういうのをここにいくつか書いてしまったら、
そのあとに続けて書くテーマを、思いつかなくなった。
悩み事ばかりが続いても……と思ったし。

ブログ管理画面で記事を書くときに私はいつも、
書き終えてからタイトルをつけることが多いけれど、
今日は最初にタイトルを書いた、小学生の作文のように。

「どこに住んでも」。

初めてドイツに住んだのは、もう13年も14年も前のことで、期間は約2年間だった。
あの頃の私は、至って平気だった。

もともと外国暮らしに憧れたことが一度も無かったので、
ドイツに住むことを別に嬉しいとは思わなかったが、
かと言って、東京に未練を感じることも無かったし、
ドイツの田舎で日本の食品が手に入らないことも何ともなかったし、
ドイツという外国を嫌だとも全く思わなかった。

あの頃は、上の子がまだ小さかったし、
下の子をドイツで生んで私もそれなりに忙しかった。
私は元来街の暮らしのほうが好きで、
様々な人工的な物に囲まれているほうが、
大自然に囲まれているよりは幸せを感じるタイプだ。
それでもあの頃の私にとっては、
美しい自然の中で送るドイツの田舎暮らしは、決して悪くなかった。
あのままずっとドイツに住んでいたなら、
自分の心持ちはきっと全く違っていたと、今でもよく思う。

私は、初めて住んだドイツから東京に舞い戻った時、
ああ、ここはなんて汚くて臭くてうるさい街なのだろう、と、かなり驚いた。
好きで長いこと住んだ東京が、あの時の私にはそういう風に見えた。
住まいがまだ決まっていなかったので、
アパートメントホテルというのにとりあえず住んだ。
場所が赤坂だったこともあり、夜に眠らない街が、うるさくて仕方なかった。

明日にでもドイツに戻りたい、とさえ思った。
美しいドイツの田舎町は、きっと子供達にも絶好の環境のように思えた。
そのくらい、私の気持ちは変わっていた。

それがどうだ。
舞い戻った東京で何年間かを過ごすうち、
新しい友人や知り合いもできて、私は東京の生活にすっかり馴染んだ。
一度日本を出てみたことで、
それ以前は気づかなかった日本の良さや、日本人の良さが見えた部分も大きかった。
日本にいれば、言葉の苦労も無かった。
汚く臭い街と驚いた東京に、私は再びすっかり馴染み、
ここで、自分の国で、ずっと暮らしていたいと思うようになった。

だから、東京から二度目にドイツに引っ越した5年前の夏、
ドイツに住むのが嫌で嫌で仕方なく、どうしていいのかわからなかった。
来る日も来る日も東京のことを考え、毎日を嫌な気持ちで過ごし、
そのうち動くのも億劫になった。
二度目の外国に対して、私の心の中ではそれくらい抵抗が強くなっていた。

全くひとの気も知らず、
「あなたは、あんな、東京みたいなごみごみしている所を離れて、
 こんなきれいな国に住めるのだから、ラッキーなのよ、そう考えなくちゃ。」
と私に言った義母に向かって、声を荒げた日もあった。

学校が夏休みの間での引越だったが、
東京からの引越荷物が新居に届くまでは何週間も暇に過ごし、
インターネットもすぐには出来なかった。
考えるのは日本のことばかりだった。

しかしあの年、9月の学校の新年度が近づいてきた頃、私は次第に立ち直った。
立ち直らなくてはいけないと思った。私がしっかりしなければ、と。

子供達の新生活はこれから始まるのだ。
子供達は、初めての、誰も知る子のいない学校に入り、
これからの毎日、がらりと変わった環境で学校生活を送っていかなくてはいけない。

そういう子供達こそ大変で、大人の私が荒んでいる場合じゃない。
特に、環境の変化に少々萎縮しがちな下の子のほうは、
これから新一年生になり初めての学校生活に飛び込むのだ…。
私は、自分のことをほんとに情けないと思った。

ドイツでドイツの公立学校に子供が通うのは、私にとっても初めての経験だったが、
1ヵ月2ヶ月と過ぎるにつれて、親子共々次第に慣れていった。

学校まで少し距離があったので、子供達を毎日車で送り迎えした。
スーパーに行っては日常の買い物をし、
子供の具合が悪ければ医者に連れて行き、
歯が痛いと言われれば歯科の予約を取り…、と、
住む場所が変わってもやっていることはおんなじなのだな、と、
当たり前のことにある日私は気がついた。

どこに住んでも、家族の日常は似たようなもので、
自分を「地球人」と考える時、どの国に住むかは関係なくなるような気もした。

しかし、二度目のドイツで、ここに来て私の気持ちはなかなか立ち直らない。
一瞬妙な錯覚が起きることがある。それは、
自分は日本人なのだから、周囲の人たちは当然日本人のはずなのに、
どうしてみんな外国人なの?というような奇妙な感じ。
日本に住みたいと思う気持ちが、
一瞬自分が日本にいるような錯覚を起こすんだろうか。

なかなかどうして、私にとって「地球人」になるのは難しい。
どこに住んでもやってることは同じなのに。


(いや、夜遊びの楽しみが皆無になって久しい。)

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自分を生かすこと

(前回から続きます。)

結局あなたは暇すぎるのよ!だからそんなことばっか考えるのよ!
という声が聞こえてきそうな…前回の記事でした。


さて。

確かにそう。
暇すぎるから余計なことを考える。

体は忙しく何かをしていても、
頭の中ではいつもいつも、自分のことを考え、そして、
こんな心許ない私を母に持ってしまった子供達のことを考える。



生き甲斐というものを感じて毎日を生きていたなら、
多分世界のどこに住もうと関係なくて、
きっと(精神的に)元気よく生きていけるのじゃないかな。

アメリカに40年以上住んだ夫の叔父さん夫婦
叔父さんは、夫の親族とは血のつながりというものがないから、
私にとってはさらに遠く、何だか不思議な存在に思える人ではある。

叔父さんは、若い頃にアメリカにわたって以来、必死に働いてきた(はずだ)。
ドイツで学んだ技術(彼はBMWのメカニックだった)
を生かしてアメリカで始めた仕事がうまくいった。

叔父さんにとって、仕事は生きがいだったろうし、
何も無いところから生活を築き上げていったのだから、
それが自分の支えや精神的な強さになっているのだろう。
だからこそ叔父さんには、振り返る『マイ・ヒストリー』があるのだ。

並々ならぬ苦労もあったと思うし、
ドイツ人だからどうの、という場面だって数知れなくあったかもしれない。
英語なんてちゃんと学んだことなど一度もない、と笑いながら、
叔父さんは上手な発音で英語をぺらぺら喋る。

叔父さんの元気の源は、
「自分を生かして生きている」ことなんじゃないかな、と私は思う。
生きがいを感じて生きて来れたから、
ホームシックも迷いも無かったのかもしれない。

私のように、ああだこうだと思い悩む時間など、
叔父さんの生涯には多分無かったんじゃないだろうか。

でも、それじゃ叔母さんのほうはどうだったんだろう。
(私は、叔母さんと話す時間が無く、ほとんと何も聞かず終いだった。)

二人は共にドイツ人。

その二人には、家の中には二人のルーツ「ドイツ」があったのだと、私は思う。
外で二人がどれだけアメリカに馴染んでも、
家の中ではほっと一息つけてドイツ人らしくいられたのではないかな、と。

そのあたりが、うちとは違っているなあと思うわけだ。

もし私たち夫婦が、日本人同士で、そして外国に住んでいるのだったら、
今とはまったく違う心持ちがありそうな気がする。
何かこう、もっとしっかりと「日本人」でいられるような気がする…。

異国の地だろうが関係無く自分を存分に生かし、
年取ったって生き生き生きてるアメリカの叔父さん。

この私は、この場所で自分をどう生かせばよいのかわからぬままに、
もう何年も何年もたつ。

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自分を見失ったと思う時

夏はとうに過ぎ去り、秋晴れも少ない今年のバイエルン。

子供の頃から、夏が終わる頃に落ち込む癖のある私だが、
今年は9月が過ぎてもウツウツし続け、思考回路は少々ネガティヴ。

…と、前置きをするワタシ…。


さて。

もう何年も前、あれはまだ私達が結婚する前だったと思う。
多分、18年も前のことだ。

あの頃は、彼も私も東京に住んでいて、
週末のその日、私達は、彼の友人宅のホームパーティでわいわい飲んでいた。

何かのきっかけで私は、その日初対面だったある日本人女性と話した。
その人は、過去にアメリカ人と結婚したけど数年で離婚した、という人で、
私よりも10歳近く年上に見えた。

あの時私は、心の中で生意気にも思った。
ふーん、あなたは、要するに国際結婚に失敗したわけね、かわいそうに。
でも、私は違うわよ、私は大丈夫、絶対に失敗などしない。
彼と私は、ずっと仲良くうまくやっていける…。
あの頃の私は、本気でそう信じていた。

私は、あれきり何年も何年も忘れていたあの女性のことを、最近になって思い出す。
(彼女には、子供はいなかった。子供をもうけること無く離婚した人だった。)

18年後の、今の私は、自分の今のこの現実を踏まえた上で、思うわけだ。
ああ、あの人は、(そのアメリカ人と離婚をして)利口だったな。

結婚って、元を正せば他人だった相手と暮らす生活そのもので、
そこから生じる思いや悩み、子供がいればいたで家族の中の人間関係など、
うまくいかないことがなんと多いかと、私は毎日思う。
(ブログに気安く書けない事が、どんだけあるかと思うね。)

私の現在を、18年前に予見し得ていたなら、
私はきっと、国際結婚などしなかったし、
こうして外国に暮らすこともきっとなかった、はずだ。
(もとより、外国暮らしに憧れたことなど、ただの一度もなかった。)

もちろん、ここまでの全ては、
その都度自分の選んできた道なのだから、
今さら考えても仕方ない。
人生は、やり直しのきかない実験みたいなところもある。

国際結婚の子供達が、
十代にもなってくると、どこかの年齢で必ず対面する(と聞く)「自分って何だ」問題。
アイデンティティ。
自分が自分であるということ。
自分のルーツって何?

私自身は、100%日本人で、国際結婚の子供ではないが、
それでも一体何年前から私は自分でその問いかけにぶち当たってきたんだろうか、
と、思う。

対面しても答えの出せない問いかけ。

いつしか日本人離れしてしまい、
かと言ってドイツ人に近づくこともない自分がいる。

まったく、自分って何だ?だ。


ところで。

先日ご年配の日本人の方と食事する機会があった。
日本在住の方で、ドイツ訪問中だった。
もちろんルーツはしっかり日本。
識者の方なので、私は、実は結構緊張した。

変なことを口走ってしまったらどうしよう。
日本語が怪しくなっていたらどうしよう。

普段、インターネットで日本のニュースを見るとしても、
ほんのいくつかの、それもニュースの見出しだけ見るだけ、ということも多い。
だから私は、日本のことに全く詳しくないから(ドイツのことにも詳しくないけど)、
何かトンチンカンなことを言ってしまうかもしれない。
そうならないように、せいぜい気をつけなくては。

なーんて思っていたものだから、始終緊張した。
(お会いしてみたら、なかなか無口な方だったので、私の緊張もそれだけ増した。)

まったく、こうなった自分って、何なんだろうな。
日本人に会うのも、緊張が伴うから億劫になり、ドイツ人と話すのは疲れた。

私みたいな、ある意味精神面で弱い人間にとっては、
きっと、今の全てに対する「器」というものが足りなかったということか。

私は、自分が自分らしくあると思っていた昔の自分を、
とうに見失ってしまったのだと思い、
心許ない気持ちで胸が一杯になってしまうのだ。

(次回につづく~。かも)

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結婚式の思ひ出2

前回の純日本風な結婚式&披露宴は、出席者が家族と親戚中心だったので、
その1週間後、とあるメキシカン・レストランで友人知人中心のパーティをした。

日本で婚姻届を済ませ、その1週間後ドイツに渡った。
ドイツでは、結婚式はやらず、婚姻届けとパーティをすることにしていた。

ドイツでの婚姻届けというのは、日本のそれとは大きく異なり、
これはもう、ちょっとしたセレモニーであった。

かつて義母が何年も勤めていたという、実家の隣町の町役場で、
そのセレモニーをすることに話が決まっていた。

私はあの日、着物を着た。
今は亡き母が、結婚祝いに私に作ってくれた、くすんだ赤の留袖を着た。

私は、着付けの知識が無かったので、
急遽母に2日間特訓してもらい、練習してからドイツに向かった。

ドイツの両親は日本の結婚式に出席せず、
私の両親もドイツへは向かわなかった。

それは双方そういうことでいいと思っていたので、
どちらからも何の反対意見も出なかった。
誰かが、だからと言って残念がるとか悲しむというようなことも、何も無かった。

私の両親がドイツに旅行するのは結局かなわなかったが、
彼の両親は一度日本に来て、私の実家にも足を運んでくれた。

私は、ドイツでの婚姻届けのあの日、だから「たった一人の日本人」だった。

当日は一人で支度をした。母はきっと、娘がうまく着物を着れるかと、
遠い日本から気をもんでいたに違いない。

髪は、長かったのを自分で結い上げ、髪飾りをつけた。
義兄の持っていた大きな姿見の前で、
時間をかけて落ちついて着ていったから、うまくできた。
ワインカラーの留袖に、金の刺繍の帯が美しく映えた。

義母がかつて勤めていた町役場は、小さなお城みたいできれいな建物だ。
セレモニーを行う部屋は、これもきれいな、図書室のように見えた。
壁に沢山本が並んでいたような記憶があるが、今となっては定かではない。
私も、それなりに緊張していた。

大きなテーブルを囲んで席に着いたのは、
町長さんと秘書?の方、彼と私、そして、
結婚立会人(日本で言うところの媒酌人)として、彼の兄と彼の親友。

参列者は、家族、親戚、あとはごく近しい友人達だけだ。
あの時私には、ドイツに友人が一人も居なかったので、
友人として参列したのはみな、彼の友人だった。

あの日は、朝から雨が降ってあいにくの天気だったのが、
セレモニーの始まる頃になんとかやんでくれた。

セレモニーが始まると、まず音楽が流れたように記憶している。
ちょうど雨上がりの空から日が差した。
音楽の歌詞の意味は、当時の私には何もわからなかったが、
多分ドイツの人には馴染みの、こういう時のための音楽だったのだろう。

町長さんのお話を聞き、当時ドイツ語をまだあまり話せなかった私は、
当然のことながら全てが、ほとんどちんぷんかんぷんではあったが、
緊張しながらも浮かれてはいたため苦にもならず、
さもわかったような顔をして聞いていた。

町長さんの秘書さんは、分厚い本を開いて読み上げた。
結婚の心得だったのだろうか。
一段落を読み上げては、音楽が流れた。
私は、意味を想像できても細かいことは理解できなかったから、
全て聞き流した。

意味不明な言葉を何時間か連続して真面目な顔して聞き続けるのは、
なかなかどうして大変なことである。
 
ようやく式も終わりに近づき、婚姻届けに署名をする時が来た。
その大きなテーブルを囲んだ全員が署名したように記憶している。
当時は不慣れだったアルファベットのサインを、私もした。

終わるまで2時間とかかかったらしい。
義母が、いかに町長さんが時間をかけて丁寧にやって下さったかと、
私達に嬉しげに話した。
普通は1時間ほどで終わるものだと、あとから聞いた。

確かに、これくらいのセレモニーの後ならば、
これからさらに(日を改めるとしても)教会で結婚式をやるとなったら、
日本で既に結婚式をした私達は、かなりしらけたかもしれなかった。
やはり彼の言ったとおり、結婚式は一度だけでよかったのだ。

建物の外に出たところで、ライスシャワーを浴びた。
この後のパーティのみに出席する彼の友人達が、
外で待っていてくれたのだった。

皆で結婚パーティ会場へ向かった。
会場は、この場所から20キロほど離れた町の、
とある湖のほとりのレストランだった。

そこへは皆当然のことながら、車で向かった。
新郎新婦の私達が乗せてもらったのは、義弟が当時持っていた車だった。

ベンツでもなく、BMWでもなく、ちんまりとした赤のミニクーパーだった。
ボンネットには、40センチも幅のある白いリボンがきゅっと結ばれていて、
その上には花束が乗っかっていた。

ドライバーは、もちろん義弟が務めてくれた。
運転手よろしく白い手袋をし、帽子もかぶって、
後部座席に乗り込んだ私達にシャンペン・サービスもしてくれた。
(自分でもちょっと飲みながら運転した。)

レストランまでの距離を、何十台かで連なりゆっくり走った。
どの車も、クラクションを鳴らして走った。
対向車も、それに応えてクラクションを鳴らした。

ミニクーパーの後部座席に少々窮屈に収まりながら、
ふうん、こんな風にするんだーと思って、とても楽しかった。

レストランでのパーティも楽しかった。
夜中の二時を廻っても帰ろうとしなかった私達に、
しまいにはレストランも不機嫌になった。

しかし何はともあれ、めでたい夜であった。
私の着物は、最後まで崩れなかった。

16年前の、7月10日だった。
まだまだとっても幸せだった。

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Author:granat
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