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咄嗟

少し前のこと。
近くの湖の、水際を夫と散歩していた。

丁度そこは、片側が土手みたいになっていて、
湖沿いの道路へとせり上がっている。
そしてもう片側は、急に水深数十cmで湖が始まる。

その部分は、歩ける幅など1mもなくて、
水かさの増している時期なら、
すっかり水の中になっていることもある。

別に話に花が咲くことも無い二人なので、
その狭いスペースを歩く時には、
夫は少し先を行き、私は後からついて行く。
そんないつものパターンだった。

その時私のすぐ左手は、深さ40cm程の水だった。
その中にゆらりゆらりと、何か漂うものが目に入り、
それが何かを一瞬遅れて認めた私は、
思わずひっと息を呑み、一瞬足がすくんだ。

アヒルよりも一回り小さくて、もう決して動かない黒い水鳥が一羽、
細かい波に押されては透き通った水中で揺れていた。

私という人は、何かが死んでいる状態というのがとても怖い。
それはもう死んでいるのだからこちらに向かって飛びかかって来るわけがないと
百も承知の上でも、それでも怖くて気味が悪くて、直視もできない。

だから私は、
例えばバラバラ殺人事件を起こす人が一体どんな神経をしているのか、
さっぱりわからない。
死体を前にしたらそれだけで腰を抜かしそうなのに、
そこにさらに何か手を加えるなど、到底考えられない。
もちろんそれは既に正気の沙汰ではないけれども、
私ならば永遠に気を失って楽になる道を選びそうだ。

さて、水中に水鳥の死骸を見てしまった私はとても驚いて、
うっともひっともつかない小さな声を上げた。
少し前を行く夫が、そんな私にこそひどく驚いて振り返った。

そして夫は怒り出した。
湖から蛇でも現れたかと思ったじゃないかと
訳のわからぬことを言って私を怒った。

こんな寒い時期じゃなくて夏だとしても、
まさか蛇が突然水中に湧いて出てくるはずも無いが、
それもまた、夫の咄嗟の反応と言えた。

要は、そんなものに驚くなということだった。
水鳥が一羽死んで沈んでいるなんてことは、
ここは湖なんだし、何でもないことだろうと。
驚くにしても、もっと静かに、人を驚かさない様に驚け、
ということだった。

人間、咄嗟の反応などというものは、
なかなか自分でコントロールできないものだと思う。
私が私なりの咄嗟の反応をすると怒られるのかと、そう思ったら、
その日の気分も相まって、腹が立つより切なくなった。
咄嗟の反応にまでケチをつけられるのか私は。

それは例えば、咄嗟に出るクシャミとかしゃっくりとか、
あるいは咄嗟の笑いなどに対してケチをつけられる様なものじゃなかろうか。
自分ではなかなかコントロールできない。だって咄嗟なんだから。

何が起きても何を見ても、決して驚いてはいけないぞ、と思いながら
すっかりしっかり身構えて散歩するというのも楽しくないではないか。

しかし私も学んだ。
この美しい湖の ― 全体的に見ればとても広々と美しいこの湖の ―
その水の中には水鳥の死骸が漂うこともあるということを。

次の時には驚かずに済むだろう。
頭の中でシミュレーションして少し場数を踏んでおこう。
場数さえ踏めば、人間何でも平気になる。

人は誰しも、誰かから自分を否定されると切ないばかりだと思うが、
咄嗟の反応まで否定されるというのもかなり切ない。
そう思って少しばかり涙まで浮かびそうになった。



おまけ:

今日、
キッチンで白菜の葉を一枚ずつ外していたら、
ほんの小さな、
8mmほどの黒いナメクジが葉裏にくっ付いていて、
それで少しばかり驚いた私だったが、
それは誰にも気取られる心配の無い位ささやかな驚きだった。
しかし次の葉をめくったら、
今度はその2倍のサイズのナメクジがくっ付いていて、
そこではもうちょっと驚いたのだったが、
そのさらに奥に、
3cmのナメクジが控えていたのを目にしたところで、
ひぇ~っと驚いて流しに白菜を放ってしまった。
たまたまそこに居合わせてそれを見ていた息子が
― たまたま彼はその時スナック菓子を頬張っていたのだが ―
「人がものを食べている時に気持ちの悪い反応をするな!」
と言ってとても怒ったので、
私も逆の立場なら自分のこの反応を不快に思ったかもと思い、
咄嗟の反応をまたしても制御できなかったことを切なく思った。
咄嗟だからこそ制御できないのだけれど。
白菜のナメクジにはうっかりした。
なかなか有りそうで無いケースだった。
次は気をつけることにしようと思った。



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